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言葉で世界をぶっ壊す。

ストレイト・アウタ・コンプトン

最も危険な時代が生み出した最も危険なヤツら。

2016.6.3[FRI]Blu-ray&DVDリリース!

NEW ERA

STORY

CAST

DR.DRE

Corey Hawkins コーリー・ホーキンズ

1988年10月22日
アメリカ・ワシントンD.C.生まれ。

ジュリアード音楽院演劇科において古典演劇で才能を示した学生一人に授与されるジョン・ハウスマン賞を受賞し、卒業。ロバート・ダウニー・Jr.主演の『アイアンマン3』(13)で映画本格デビュー。その他出演作品にリーアム・ニーソン主演『フライト・ゲーム』(14)やテレビドラマでは、「ロイヤル・ペインズ 〜救命医ハンク〜」(11)や「ゴールデン・ボーイ 若きNY市警本部長」(13)などがある。

DR.DRE

Corey Hawkins コーリー・ホーキンズ

1991年2月24日
アメリカ・カリフォルニア州コンプトン生まれ。

アイス・キューブとして知られる自身の父親、オシェイ・ジャクソンを演じるという生涯最高の役を『ストレイト・アウタ・コンプトン』(15)で獲得し、俳優デビュー。もっとも、このカリスマ性に富む若者は、デビュー以前も父親のツアーに同行して幾度となくパフォーマンスを披露していたため、ステージに立つことには慣れている。今後も俳優業を続けていく予定。

DR.DRE

Corey Hawkins コーリー・ホーキンズ

1987年生まれ。
アメリカ・ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。

サム・ワーシントン主演の『キリング・フィールズ 失踪地帯』(11)で俳優デビュー。マーク・ウォールバーグが主演の『ハード・ラッシュ』(12)や、ウォールバーグ、ラッセル・クロウ、キャサリン・ゼタ=ジョーンズが顔を揃えたアレン・ヒューズ監督『ブロークンシティ(13)出演。近作ではエミール・ハーシュ、ゾーイ・クラヴィッツ、ゾーイ・ドゥイッチと共演するインディペンデント映画『Vincent-N-Roxxy(原)』(15/未)がある。

DR.DRE

Corey Hawkins コーリー・ホーキンズ

1986年9月20日
アメリカ・ノースカロライナ州ジャクソンビル生まれ。

『ダイ・ハード3』(95)で長編映画デビュー。その他、『ダイ・ハード/ラスト・デイ』(13)環境テロリズム・サスペンス『ザ・イースト』(13)に出演。テレビドラマには、「SUPERNATURAL スーパーナチュラル」(07)、「BONES ボーンズ -骨は語る-」(06)、「CSI:科学捜査班」(01、08)、「ER 緊急救命室」(98、03)、「コールドケース迷宮事件簿」(03)、「ウォーキング・デッド」(14)などがある。今後はトム・クルーズ主演の『アウトロー2(仮題)』(16)が控えている。

DR.DRE

Corey Hawkins コーリー・ホーキンズ

1980年6月19日
アメリカ・フロリダ州オーランド生まれ。

ジョエル・シューマカー監督作『タイガーランド』(00)で長編映画デビュー。『ワイルド・スピード MAX』(09)や『世界侵略:ロサンゼルス決戦』(11)などメジャー作品に出演。「ウォーキング・デッド」(10)、「SUITS/スーツ」(11)、「Weeds ママの秘密」(12)、「NCIS ~ネイビー犯罪捜査班」(13)など数々のテレビドラマに出演している。

DR.DRE

Corey Hawkins コーリー・ホーキンズ

1967年6月6日
アメリカ・コネティカット州ニューヘイブン生まれ。

ベティ・トーマス監督のコメディ映画『プライベート・パーツ』(97)で脚光を浴び、その後、F・ゲイリー・グレイ監督『交渉人』(98)、スティーヴン・スピルバーグ監督『プライベート・ライアン』(98)、ピーター・ウィアー監督『トゥルーマン・ショー』(98)、ティム・バートン監督『PLANET OF THE APES 猿の惑星』(01)などの大作に出演。アレクサンダー・ペイン監督作品『サイドウェイ』(04)でインディペンデント・スピリット賞主演男優賞、NY批評家協会賞主演男優賞を受賞したほか、ゴールデン・グローブ賞と米映画俳優組合賞にもノミネート。さらに、ロン・ハワード監督『シンデレラマン』(05)で、全米映画俳優組合賞と放送映画批評家協会賞の助演男優賞を受賞、アカデミー賞とゴールデン・グローブ賞にもノミネートされる快挙を果たす。

staff

1969年7月17日、ニューヨーク州ニューヨーク生まれ。
アイス・キューブとクリス・タッカーが主演した『friday』(95)で長編監督デビュー。ケヴィン・スペイシーとサミュエル・L・ジャクソンが主演した『交渉人』(98)でアカデミー賞監督賞にノミネート。一躍脚光を浴びる。その他にシャーリーズ・セロン、マーク・ウォールバーグら出演した『ミニミニ大作戦』(03)、ジョン・トラボルタ主演の『Be Cool/ビー・クール』(05)、ジェラルド・バトラーとジェイミー・フォックスが共演の『完全なる報復』(09)がある。アイス・キューブ、ドクター・ドレー、アウトキャスト、ジェイZ、TLCらのミュージックビデオも多数手がけている。最近ではガス・ヴァン・サント監督作『The Sea of Trees(原)』(15)を製作。

1965年2月18日、アメリカ・カリフォルニア州コンプトン生まれ。
本名アンドレ・ヤング。
ワールド・クラス・レッキン・クルーを結成して音楽のキャリアをスタート。その後、アイス・キューブ、MCレン、DJイェラ、今は亡きイージー・Eらと共にN.W.A.を結成。ファーストアルバム「ストレイト・アウタ・コンプトン」により、サウス・セントラル・ロサンゼルスにおける暮らしの厳しさや怒りを世界に向かって発信した。1992年には「ザ・クロニック」をリリースしてソロデビュー。2枚目のソロ・アルバム「2001」は600万枚以上を売り上げた。1996年にアフターマス・エンターテイメントを創設し、1999年のデビュー・アルバム「ザ・スリム・シェイディ LP」が900万枚を売り上げたエミネム、その他にも50セント、ケンドリック・ラマーら、ヒップホップ界のスーパースターを発掘した。2008年、ビーツ・エレクトロニクスをジミー・アイオヴィンと共同設立。ヘッドフォンのプロデュースを手がける。ビーツ・エレクトロニクスは2014年1月、定額制音楽ストリーミングサービスであるビーツ・ミュージックを設立。両社はアップルにより買収されている。

1969年6月15日、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。
本名オシェイ・ジャクソン。
N.W.A.の大ヒット曲「ストレイト・アウタ・コンプトン」と「ファック・ザ・ポリス」の歌詞を書いた後、支払いをめぐる争いが理由で、絶頂期にあったN.W.A.を脱退。ソロ活動開始後も、ますます成功をおさめていき、ラップ界でもっとも影響力を発揮するアーティストとして、一千万枚ものアルバムのセールスを記録した。
ジョン・シングルトン監督の『ボーイズ’ン・ザ・フッド』(91)、デヴィッド・O・ラッセル監督の『スリー・キングス』(99)などで俳優としての才能も発揮。さらに、『friday』(95)では主演・脚本・製作総指揮、『バーバーショップ2グッド!』(04)では主演・製作総指揮をそれぞれ手がけ、映画製作におけるマルチな才能を見せつけた。近年では『21ジャンプストリート』(12/未)に出演し、続編『22ジャンプストリート』(14/未)では製作総指揮もつとめた。活動の中心はやはり音楽で、全音楽キャリアにおける通算18枚目のアルバムとなる「Everythang’s Corrupt」を2013年にリリース。このアルバムで彼は、誠実さ、愛、尊敬の念に溢れる地だったアメリカ合衆国が、無意味で虚しい物質主義に冒されてしまったことへの思いを表現している。

PRODUCTION NOTE

1

N.W.A.を描くこの映画は多面的な見方ができる。グループの革命的な音楽が生まれた社会背景を織り込みながら、個々のメンバーの強烈なストーリーを10年間にわたって描いていく。

アーティストとして長いキャリアを誇りつつ、映画業界でも俳優、作家、プロデューサー、監督という4つの顔を持って活躍してきたアイス・キューブ(本名:オシェイ・ジャクソン)は、N.W.A.の誕生を記録したいと願い続けてきた。

そんな彼が、極めて魅力的で見過ごすことができない脚本に出会ったのが2009年。初めて本格的に取り組むN.W.A.の伝記映画を、グループの創始者で1995年に他界したエリック・“イージー・E”・ライトに捧げようと決めていた。キューブは振り返る。「イージーには先見の明があって、俺達の音楽には未来があること、これこそみんなが聴きたがっているレコードだということを知っていたんだ。それと同時にイージーは、コンプトンを世間に知らしめることにとてもこだわっていた」

その後、N.W.A.のメンバー、ドクター・ドレーとイージー・Eの未亡人、トミカ・ウッズ=ライトが製作として、さらにグループのオリジナル・メンバーであるMCレンとDJイェラが監修として加わり、鍵を握るスタッフが揃った時、これで彼らのストーリーにしかるべき敬意を払った作品ができあがると、確信した。

世界中の多くのファンにドクター・ドレーの名で知られているアンドレ・ヤングは、自分達のストーリーを映画化することに関して、他のメンバーよりもためらいを感じていた。「ザ・クロニック」や「2001」といったアルバムを発表し、西海岸のラップ界、ヒップホップ界に大きな影響を与え続けているアーティストであり、プロデューサーでもあるドクター・ドレーにとって、この時代は彼の人生を決定づけた極めて私的な年月であり、その時期を正確かつ誠実に描くことができるかどうか確信が持てなかったのだ。それでも、脚本に目を通し、まずアイス・キューブと、続いて自身の家族と何度も話し合った結果、波乱に満ちたN.W.A.の姿を世界に見せる映画製作チームに加わることを決意した。

チームを率いて、この複雑なストーリーを観客へ届ける責任を負った男は、『ミニミニ大作戦』(03)、『交渉人』(98)、『Be Cool/ビー・クール』(05)などあらゆるジャンルの作品を手がけてきたF・ゲイリー・グレイだ。2011年からこのプロジェクトに深く関わってきたグレイは、『ストレイト・アウタ・コンプトン』を彼の映画人生において最も重要な映画であり、自身の経験とキャリアを総括する真の意味での集大成だと考えていた。

子どもの頃、彼もこの映画が描く若者達と同じストリートで育ち、クラック・コカインの隆盛と輸入物の自動小銃が80年代の家庭を破壊するところを目の当たりにしてきた。彼らのストーリーは監督自身の物語でもあるのだ。同じ境遇に育った自分にとってはアートこそが日々の鬱憤と怒りを表現するのに最適の手段だと気づいたのである。「私が撮るべくして運命づけられた映画でもあります。この映画に出演している俳優達の顔を見ると、30年前、私がいたストリートの子ども達が見えます。作品に関わったすべての人の情熱と、皆が込めた思いを感じ取ってもらえるはずです」

グレイはとりわけアイス・キューブ、そしてドクター・ドレーと互いに敬意を払い合う親密な関係を築いてきた。この2人のアーティストと長年親交があったグレイは、事実に忠実な映画を撮ることを第一の目標にした。揺るぎない友情を綴ると共に、金と名誉とエゴと悲劇がこの革新的グループの絆をいかに脅かし、変貌させたかを描くのだ。

「最初に脚本を読んだ時、若者が大人へと成長していく物語のように感じられました。意外でしたよ」とグレイは振り返る。「彼ら5人の男達の歴史の始まりのように感じられたんです。もっと深く掘り下げたいという欲求が込み上げて来るとは思っていませんでした。N.W.A.の音楽は偉大ですが、私は彼らの「人間性」に斬り込みたかったのです。アイス・キューブと話し合いを始めた時に、私はこう言いました。『オシェイ・ジャクソンやアンドレ・ヤング、エリック・ライト、彼ら本来の姿にアクセスさせてくれるなら、このストーリーを撮ろう』とね」

グループ結成当初から、N.W.A.のメンバーは自分達が相性抜群だということを知っており、それぞれが役割を見つけてやすやすと相乗効果を生み出した。アイス・キューブとMCレンは作詞の才能に恵まれていた。ワールド・クラス・レッキン・クルーでDJとして組んでいたドクター・ドレーとDJイェラは、サウンドとプロデュースを担当。イージー・Eはステージ上でも舞台裏でもフロントマンを買って出て、グループ独自のルックスとサウンドを仲間達に対してだけでなく、やがては世界中のメインストリームの音楽ファンにも知らしめた。

音楽ビジネスは経験の浅い才能の持ち主を食いものにすることがあるが、N.W.A.のメンバーもまた例外ではなかった。今振り返れば、当時は音楽を作れる機会を最大限に活かして観客のためにパフォーマンスを披露し、その成果を満喫することに集中するあまり、ビジネス面の細々とした取り決めを疎かにしてしまったのだと彼らは口をそろえる。

ドクター・ドレーにとっては、クリエイティブであることがすべてだった。最新のレコーディング・スタジオや機材を初めて使えるようになり、可能性が無限に広がったのだ。彼は言う。「音楽だけに集中し過ぎていたんだ。ビジネス面にはほとんど注意を払っていなかった。とにかくスタジオに入って、創作にかけるエネルギーをぶつけ続けたかった。今にして思えばもっと気を配るべきだったんだが、まだ若くて未熟だったんだよ。ただスタジオの中でするべきことをして、大好きなヒップホップで楽しみたかったんだ。俺にとってはそれがすべてだった」

2

『ストレイト・アウタ・コンプトン』のメインキャストを選ぶことは、グレイ、アイス・キューブ、ドクター・ドレー、ウッズ=ライトら製作陣にとって極めて私的な事柄であり、多大な努力を要した。5人の主役をキャスティングするにあたって彼らが何を重視したかは想像に難くない。
必要な3つの条件をすべて兼ね備えた俳優を選ぶこと、すなわち芝居ができて、演じる人物に容姿が似ており、メンバーの過激さを体現できる俳優である。
グレイはキャスティングのプロセスをこう説明する。「N.W.A.のキャスティングで最も重要だったのは本物らしさでした。ヒップホップとは自分を偽らないことです。
メンバーの彼らは独特な地域の出身なので、なおさら難しくなりました」

キャスティングは定石通りロサンゼルスとニューヨークで始まったが、ほどなくデトロイト、シカゴ、アトランタなどアメリカ各地の大都市で広くキャスト募集が行われた。

最初に配役が決定したのはイージー・Eとアイス・キューブだ。プロジェクトの形が定まってくると、アイス・キューブは息子が若かりし日の自分をスクリーンで演じる姿を、やすやすと思い描けるようになった。オシェイ・ジャクソン・Jrはひと目見れば、すぐにアイス・キューブの息子だとわかる男だ。容姿が似ているだけでなく、揺るぎない自己を持っていて自信がみなぎっているところなど、雰囲気からも遺伝子を感じさせる。

親の直感と言うべきか、アイス・キューブはカリスマ性に富む息子の才能を見抜いていた。ただ、アイス・キューブ役の候補として検討してもらうためには、しかるべきトレーニングを積んでテクニックを身につける必要があった。それまで演技経験のなかったジャクソンは、どんな役であれ演じるということ自体が不安だったと言う。しかも作品は多大な影響力を持つラップ・グループの伝記映画ということで、製作前からおおいに期待を集めていた。さらには自分の父親という、個人的にも社会的にも大きな存在を演じるとなると、そのプレッシャーは尋常ではない。

アイス・キューブは、その役を演じるにはどれほどの準備が必要になるかを率直に息子に語ったが、しっかりと準備できるように手伝ってやるとも約束した。そこは父親似のジャクソン、アイス・キューブ役のオーディションに参加することを決めると、全力で打ち込んだ。
「なにがなんでも役を手に入れたいと思うようになったんだ」とジャクソンは言う。『ストレイト・アウタ・コンプトン』を観に行った時、他の誰かがアイス・キューブ役を演じてるなんて我慢できない。俺ほどその役をうまく演じられる人間は他にいないと感じてたからね。考えてみれば、俺は20年以上、この役をやるために研究を重ねてきたようなものなんだから」と彼は笑う。オーディションに合格後、2年にわたり演技の授業や指導を受け、究極の教材、すなわち実際のN.W.A.メンバーに助言を仰いだのだ。「映画の中のエピソードは、親父が昔から話してくれていたことだったから、それをスクリーン上で再現できるのは最高にクールだったよ」とジャクソンは語る。「親父はいつでも相談に乗ってくれた。電話をくれたり、それぞれのシーンで何を考えていたか教えてくれたり……俺がその知識を使い、シーンをモノにしてリアルに演じられるようにね」

イージー・Eの役を勝ち取った俳優、ジェイソン・ミッチェルのオーディション・テープを観た製作陣は感嘆の声を上げたと言う。ミッチェルの容姿とみなぎるエネルギーに、監督と製作陣は目を奪われたのだ。出演作品はまだ片手で数えるほどしかなく、正式な演技トレーニングも受けたことのない28歳が鮮烈な印象を残したのだ。ミッチェルは“ギャングスタ・ラップのゴッドファーザー”として知られる男を完璧に体現していた。
「イージーがここにいて、俺にあれこれ教えてくれないのは、ありがたいことでもあったし、残念なことでもあった」とミッチェルは言う。「俺はイージーをもう一度よみがえらせて、みんなが知っているイージーになろうとした。でも俳優として一番大変なのは、その人物を丸ごと再現して本当になりきることなんだ。みんなの知っているイージーの一端でもこの俺が表現できたとしたら、すばらしいことだと思う」

ミッチェルの次に出演が決まったコーリー・ホーキンスは、ラップの先駆者、ドクター・ドレーを演じることになった。彼は名門ジュリアード音楽院を卒業した俳優だ。

オーディションに参加しないかと声がかかった時、ホーキンスは辞退しそうになったという。N.W.A.の大ファンであるホーキンスは、自分はドクター・ドレーに声も容姿もまるで似ていないと感じており、見込みがないならオーディションに身を投じたくないと思ったのだ。だが結局彼はオーディション・テープを提出し、そのパワフルな演技によって、初めてメインキャストの座をつかんだ。

「キャスティングのプロセスは厳しかったよ」とホーキンスは振り返る。「でもドレーがいろいろ教えてくれて、キャスティングの間ありがたい先生になってくれた。ドレーはこう言ってくれたんだ。『俺を真似する必要はない。そっくりにならなくてもいい。君にしてもらいたいのは、そういうことじゃないんだ。N.W.A.とN.W.A.の主義を表現してもらいたい。それさえ心掛ければ、あとは勝手についてくるさ』って」

製作陣にとってキャスティングが固まる決定的瞬間となったのは、アイス・キューブ、ドクター・ドレー、イージー・E役の最終選考に残った役者達を集めて行われた、相性を判断する最後のテストだった。ジャクソン、ホーキンス、ミッチェルの3人はカメラの前でリズミカルなやり取りを見せ、みんなを驚喜させた。

3人はカメラに映っていないところでスムーズに打ち解け、仲間意識を育んでいた。それを見て部屋にいた全員が確信したのだ。このエネルギーが、カメラの前で3人の演技をがっちりかみ合わせると。俳優達当人も、神経が磨り減る難しいプロセスの中でも互いに絆を感じたと認めている。この絆は、3人がそれぞれ詞を紡ぎ出すアーティスト、敏腕プロデューサー、ラップ界のレジェンドへと変貌を遂げる旅路において、彼らを支え続けた。

こうしてアイス・キューブ、ドクター・ドレー、イージー・E役の俳優が決定したが、まだMCレン、DJイェラを演じる俳優を見つけなければならない。キャスティング・パズルの最後のピースを埋めるにあたって製作陣が目指したのは、N.W.A.のメンバー3人のキャスティングによってすでに育まれていた確かな人間関係を補強できる俳優を選ぶことだった。ほどなくオルディス・ホッジとニール・ブラウン・Jrが最後の2人に決定し、監督のドリームチームは完成をみた。彼らはN.W.A.にどっぷり浸かり5人の絆を深めた。

N.W.A.の5人のメンバーが決定すると、次は助演俳優選びとなった。製作陣のうれしい驚きは、N.W.A.のマネージャー、ジェリー・ヘラー役にゴールデン・グローブ賞受賞俳優、ポール・ジアマッティをキャスティングできたことだった。1998年のサスペンス映画『交渉人』でもグレイと仕事をしたジアマッティは、N.W.A.の音楽を初めて聴いたのはイェール大学の学生時代だった。
「N.W.A.のような音楽はそれまで誰も聴いたことがありませんでした。彼らがあれほどの商業的成功を収めて、文化史に残る瞬間を生み出したのはすごいことです」とジアマッティは言う。「彼らには強烈な魅力があるので、この脚本を読んだ時も失望はしませんでした。ワクワクするようなストーリーですし、いろんな意味で壮大な作品です」

ジアマッティは、出会った瞬間にイージー・Eを演じるミッチェルに感銘を受けたという。「ロサンゼルスに来た日にジェイソンと握手した瞬間、この若者には特別な何かがあると感じたんですよ」とジアマッティは賞賛する。「彼はすごい。どれほどすごい俳優か彼自身も気づいていないかもしれませんが、彼は本物です。彼の演技を見るのは興味深い体験でした」

3

80年代後半は、東海岸がラップの最前線を走っていた。Run-D.M.C、LL・クール・J、ブギ・ダウン・プロダクションズ、エリック・B&ラキム、ビースティ・ボーイズらが全米をツアーで回り、各地のラジオ曲から流れてくるのも彼らの音楽だった。

それまでになかったリアリティに溢れたギャングスタ・ラップには、南ロサンゼルスのゲットーで生まれ、育まれてきた西海岸独特の雰囲気があった。特徴的なビートに乗せたN.W.A.の歌詞はミュージック・シーンに衝撃を与えると同時に、嫌悪感を引き起こさせた。N.W.A.は都会に住む黒人の暮らしに関する正直な思いを、時には下品で破壊的なユーモアを交えながら表現。その社会に対する歯に衣着せぬ批判は、東海岸のラッパーと一線を画していた。彼らは、新たなラップの草分けとなった、この率直な批判とユーモアのコンビネーションが、グループの魅力だとアイス・キューブは考えていた。「当時、俺は自分達の音楽を、ゲットーに目を向けさせる唯一の方法、唯一の武器だと考えていた」と彼は言う。

彼らの音楽は地元の人々のためのものだったため、その音楽が電波に乗った時に一番驚いたのは彼ら5人だったと言う。黒人初のアカデミー賞監督賞にノミネートされたジョン・シングルトン監督の映画『ボーイズ’ン・ザ・フッド』と、グループの1988年のデビュー・アルバム『Straight Outta Compton』の表題曲は、N.W.A.を全米に知らしめ、様々な感情的反応を引き起こした。彼らの音楽を認めたり興味を示したりする者もいれば、腹を立てたり恐れたりする者もいたのである。

デビュー・アルバムはカリフォルニア州トーランスでわずか1カ月強の間にレコーディングされたが、それから数十年を経た今でもなお、ベスト・ラップ・アルバムのリストで上位にランクインし続け、音楽的な影響力を保っている。また、警官に殺される黒人の若者が後を絶たないという問題にアメリカが悩まされている現在、社会的にもその重要性は色褪せていないと言えよう。

デビュー・アルバムはN.W.A.への注目度を高めた一方で、「ファック・ザ・ポリス」という曲がFBIとの争いに火をつける。FBIは批判勢力の先頭に立ち、この曲の歌詞を扇動的だと訴えた。「ファック・ザ・ポリス」は警官の暴力と、黒人を犯人と決めつける警察の姿勢といった、グループのメンバーが自分達の周囲で目にしてきた状況に抗議した曲なのだ。

グループはありとあらゆる方面からの批判にさらされ、教会の指導者、警察やPMRC(ペアレンツ・ミュージック・リソース・センター)と戦うことを余儀なくされた。N.W.A.はペアレンタル・アドバイザリー・ステッカーの標的になったことでも知られているが、このステッカーは、当時上院議員だったアル・ゴアの妻であり、PMRCの共同創設者だったティッパーにちなんで“ティッパー・ステッカー”とも呼ばれている。ティッパーはN.W.A.の歌詞を規制するよう政府に働きかけた張本人だ。しかしFBIに糾弾されても、N.W.A.は逃げることなく言論と表現の自由を守るために立ち向かった。

製作陣はN.W.A.の先鋭的な音楽を讃えたいと考えており、そのためにはオリジナルトラックをできるだけ忠実に再現する必要があった。しかし、それぞれの役にぴったりはまった俳優達に、グループのサウンドも再現できるだけの音楽的才能があるだろうか?しかし、早い段階でキャストにボーカル・トレーニングを少々課すとアルバムの大半と、イージー・E、アイス・キューブ、ドクター・ドレーのソロ曲を再現できると判断した。中にはキャストのボーカルと本物のボーカルをミックスしたハイブリッド楽曲を生み出したケースもあった。

アイス・キューブは彼のもつグループ、ウエストサイド・コネクションのラッパー、ウィリアム・“WC”(“ダブ・シー”)・カルフーンに頼み、ラップのスタイル、ステージングの指示を仰いだ。WCはそれぞれの俳優のために時間を割き、歌詞を分解するプロセスの方法論、各メンバー特有のスタイルやリズム、声のトーン、パフォーマンスの仕方を指導した。

ラップの指導は俳優たちに大きな影響を与えた。「俺は俳優だからラップはあまりできない。でもラップのやり方を知っているかのように演じることはできる」とホーキンスは言う。「WCは俺達みんなにとって欠かせない相談役だった。全員でスタジオに入ってレコーディングをして、他のメンバーがラップをするのを聴くんだ。するとキューブやドレーが、君たちはよくやってる、イージー・Eがいたら喜ぶぞと言ってくれるんだ。とても勇気づけられたよ」

スクリーン上のN.W.A.がツアーでのパフォーマンス・シーンを撮影する頃には、彼らは完全に一つになっていた。ツアーのシーンは、テキサス州ヒューストンやケンタッキー州ルイヴィルなど、1988年に40日間にわたって行われたN.W.A.唯一のツアーのモンタージュである。特にミシガン州デトロイトでは「ファック・ザ・ポリス」の演奏中に、地元警察が中止させるべく舞台に駆け上がるという、今となっては有名な事件が起きた。

こうしたパフォーマンス・シーンは、アイス・キューブとドクター・ドレーにとっては懐かしい瞬間だった。ジャクソンはセットでドクター・ドレーと話をしている時に、体の動きや仕草、声の抑揚が父親そっくりだったとドレーから褒められた。ジャクソンはこう言っている。「俺が舞台でパフォーマンスを披露しているのを見て、ドレーが昔に戻ったみたいだったと言ってくれた時、俺はちゃんと演技できてるんだなと感じたよ」

4

暴力の歴史の中で誇り高き住人達が暮らす80年代半ば頃のコンプトンは、N.W.A.の誕生に欠かせない要素だった。彼らの挑発的なグループ名と痛烈な歌詞は、黒人が住民の大半を占め、ギャングと暴力に彩られた、労働者階級の人々が暮らすこの地域の生活を率直に語ったものだからだ。この入り組んだ街の複雑な物語をN.W.A.がシンプルかつ声高に表現した時、全米の人々が共感した。

そればかりか、グループの音楽は黒人の若者全員の生き様を歌うアンセムとなり、彼らや彼らの家族・友人が、警察の暴力や不当行為に対して怒りの声を上げることを可能にしたのだ。

同じ時期にロサンゼルスで育った監督もこう回顧する。「私はロサンゼルスのサウス・セントラルで育ちました。1980年代はとても大変な地域でした。レーガン大統領の時代で、不景気のどん底。そんな中でストリート・カルチャーに大きな変化が起きていました。それを、N.W.A.は言葉を濁すことなくさらけだしたんです。楽しい時もあれば、危険な思いもした。彼らはそれを全部歌に込めました。N.W.A.とコンプトンは歴史上の転換点となったんです」

監督は撮影に際して、80年代後半から90年代初頭にかけてのサウス・セントラルの雰囲気を捉えることを重視していた。彼は美術を担当したシェイン・ヴァレンティノや衣装デザインのケリ・ジョーンズら裏方チームと密に連携を取りながら、ありとあらゆる資料を参照した。

全登場人物の容貌で重要なのが衣装である。衣装デザインのジョーンズは元々、N.W.A.を生んだ大都会のストリート・カルチャーに詳しいが、それでもさらに徹底的なリサーチを怠らず、当時の写真やビデオを観たり、グループのメンバーの友人に助言を得たり、N.W.A.の熱狂的ファンのブログに目を通したりした。熱烈なファンがまだ数多くいることを知っていたジョーンズは、できるだけリアルなデザインを採用して、世界一危険なグループが無一文から大金持ちになった物語の視覚化に貢献したいと考えた。

当時の服装を再現しつつも、現代的なテイストを感じさせたようとしたジョーンズ。幸い、アイス・キューブとドクター・ドレーを見れば、どんな衣装が必要かは一目瞭然だったという。2人は現在もストリートとのつながりを感じさせるファッションを選んでいるからだ。「N.W.A.の強烈な歌詞は彼らのすごさを表していましたが、彼らの飾らないスタイルも同じ役目を果たしていました」と彼女は言う。「シンプルであることがキーでした。派手にする必要はなかったんです。東海岸はもっとブランドにこだわった派手なスタイルを好む傾向だったので、その違いをはっきり見せたいと思いました」

こうして衣装デザイナーが主要キャストのために選んだ靴と服は、ナイキのエア・フォース1やコルテッツ、コンバースのチャックテイラー・オールスターに、ディッキーズのパンツとシャツだった。そこにリーバイス、プロクラブのTシャツ、ペンドルトンのショートパンツ、ジッパーのついたトラックジャケットを適宜加えた他、ロサンゼルス・レイダーズのグッズをふんだんに使用した。

美術を担当したヴァレンティノは、無一文から大金持ちになっていく若者達をビジュアルで見せなければならなかった。ロサンゼルスの歴史的瞬間を再構築するために何が必要だったか、ヴァレンティノはこう説明する。「最も大きな挑戦は、映画の物語として成り立つ環境を創り上げる一方で、山ほど存在する過去の資料と食い違わないようにすることでした。この映画ではロサンゼルスの街が、まるでもう一人の登場人物のように描かれます。暴動シーンのセットの質感とトーンは、地域住民の怒りと混乱と抗議を映し出すものでなければなりませんでした。素材に対する鋭い感受性を保ち、それを確実に反映させるという強い気持ちで取り組む必要がありました。ほんのわずかな間違いも許されなかったのです」

暴動シーンはサンフェルナンド・ヴァレー北部にあるローレル・キャニオン大通りで、当時の街の面影を留めていた4つの区画を使い撮影された。グレイのスタッフは、燃やされ、窓を壊された店の正面を再現し、引っ繰り返された車を多数配置。略奪者を演じる者がそこら中を暴れ回り、店主役は店の屋根でショットガンを構えた。撮影のために立ち入り禁止になった区域の周囲に集まった見物人は、目の前で繰り広げられる光景に呆然と見入っていた。

80年代半ばに黒人の若者達が不当に逮捕されたり、警察から嫌がらせを受けて衝突したりした状況と、現在アメリカ各地で黒人の若者達が警官に殺されている状況。両者の間に横たわるドラマチックな共通性を、撮影中のスタッフは否定できなかった。製作陣はこうしたことを心に留めながら、N.W.A.の音楽の多くに影響を与えた暴力的な衝突を再現した。

ここ数年、コンプトンは政治的にもそれ以外でも、新たなリーダーシップのもとで生まれ変わろうとしてきている。この小さなコミュニティに蔓延した暴力と麻薬という過去を振り払うのは容易ではない。しかしどんなに困難でも、コンプトンには地元から飛び立ったN.W.A.の大いなる遺産がある。それは住民たちにいつまでも大きな誇りを与え続けていくのだ。

友情と才能、そして野心によって結ばれた5人の若者達は、瞬く間に手に入れた富がもたらす欲によって引き裂かれた。20年近くが経った今、N.W.A.のメンバー間の絆は修復され、かつてないほど強くなっていることが、この映画の製作を通して明らかになった。キューブ、ドレー、イェラ、レンは、イージー・Eと共に過ごした昔の記憶を掘り返し、グループの業績と遺産を讃える日々を慈しんだ。

映画が完成した今、ドクター・ドレーは振り返る。「N.W.A.は俺達が出会って一緒にモノを生み出す出発点として完璧だった。人生というこの素晴らしい樹の根っこなんだ。俺にとっては、N.W.A.はインスピレーションそのものだ。この間、キューブにも言ったんだが、この映画の製作にインスパイアされて俺はスタジオへ戻ったんだよ。大好きなことの根っこに戻りたくてね。俺のすべてのベースは音楽だ。あのヘッドホン(ドレーがプロデュースするBeats by Dre)だってそうさ。もし戻れるとしても何一つ変えるつもりはない。いいことも悪いことも、何一つね」